水田寛展「歩調」トークショー 水田寛×山部泰司 2014年3月2日 ギャラリーあしやシューレにて

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水田寛展「歩調」トークショー
2014年3月2日
場所:芦屋シューレ

高尾:本日は、水田寛展にお越し下さいましてどうもありがとうございます。今日は、本展の作者水田寛さんとゲストに山部泰司さんをお迎えしております。どうぞよろしくお願い致します。

水田:よろしくお願いします。

山部:よろしくお願いします。

水田:今日は、みなさまお越し頂いてありがとうございます。水田寛と申します。現在は京都を拠点に絵画作品を制作しています。山部泰司さんと初めてお会いしたのは、京都の丸太町にあるギャラリー恵風という所で私が個展をした時に観に来て頂いた時でした。その時に絵についてまとまった時間お話する事が出来まして、その話の中で、絵の見え方が見る人の解釈で変わるということについて、私は、それは良い事で作品として理想的なことだと思っていたのですが、山部さんはそこに疑問を持たれていました。その疑問は私にはとても新鮮に思え、今回の作品作りにも影響が無かったとはいえないです。そういう事もあって是非山部さんにトークのお相手をお願いしたいと思ったのでした。

山部:はい。ご紹介いただきました山部泰司と申します。1980年くらいから関西を中心に作品を発表しています。水田さんの大学の先輩にもなります。今日は短い時間ですので、自己紹介としてお互いスライド3点ずつ見せるということにしました。まず、それぞれの作品を少し見ていただいてから、本題に入りたいと思います。映像、映りますか?

水田:はい、映るはずです。

youganogenzai洋画の現在 (展示風景)  2003  京都文化博物館

山部:はい。まず、最初の写真は2003年、京都府京都文化博物館での「洋画の現在」という展覧会の展示風景です。これは自分の制作のあり方について考えていた時期の展覧会で新しい作品を過去の作品と断絶させたいと思ってつくった作品です。絵の表面を全部金箔で覆いました。この仕事で、金箔は何枚も貼り重ねることでやっと金の物質感が出ることがわかりました。その金箔を貼ったシリーズの一点目がこの作品です。

amabeyasushi-ten-2004amabeyasushi-ten-2004山部泰司展 (展示風景)  2004  村松画廊

山部:二点目は、2004年、村松画廊の個展での展示風景です。村松画廊の床まで白い空間の中に作品が浮かび上がるように展示しました。真っ白な空間の中でこれだけの面積の純金の表面を見るってことはなかなかないことだと思います。金箔の下には、瞬間を象徴するいろんなイメージを描きました。朝顔であるとか、花火が広がる瞬間のイメージを永遠の象徴としての金のイメージで覆うことで、相反するものを対峙させるコンセプトでした。絵画を薄い金箔で封印して、絵画を、一度、ゼロに戻してみようと思いました。

yamabeyasushi-ten-2008山部泰司展 (展示風景)  2008  奈義町現代美術館

山部:三枚目の写真は、2008年、奈義町の奈義町現代美術館のギャラリーでの個展です。旧作と新作を組み合わせた企画展で「山部泰司展〜変容する絵画〜」というタイトルでした。奈義町現代美術館は、パーマネントで、荒川修作+マドリン・ギンズなどの作品を展示する美術館ですが、企画ギャラリーが併設されています。写真、左手の作品は「咲く力」という1987年の制作で、オールーヴァーな画面の中心に花のイメージを描いた作品です。この作品は四角い画面の中に図を描くという一番基本的な構造、つまり、子供が絵を描くような原初的なあり方と抽象的な表現を重ねあわせようとした仕事でした。その作品の右側にあるのは、奈義町を巡り取材しながらいろんな場面を編集してパノラマの風景を描いた作品です。この作品では、風景を成立させる形式を通して絵画のダイナミズムについて考えました。それ以降も、「風景画」に関わる作品を継続的に制作しています。作品の風景は現実の風景ではなく、現実の風景を編集して作った架空の風景による「風景画」です。これで3点。

水田:あと一つありますね。

mizuderutokoro-a-2013山部泰司 「水出る処A」 2013  油彩・キャンバス

山部:そして、現在の作品。2011年の3月11日、テレビが震災の津波が街や人を押し流す映像を繰り返し放映しました。その映像やその後の事態の推移には強い衝撃を受けました。それに先立つ2009年ごろから、私は風景を水が満たすような「風景画」を描いていました。蛇行する曲線が光る水路にも見えるような作品でした。水が流れる場面が特定の災害に関連づけてしか見られなくなることは望ましくないと思いました。それで、震災後はこのテーマの作品を描く気になりませんでした。しかし、今は、震災の記憶から目をそらせることなく、水が流れる風景を描いています。
それでは水田さん、お願いします。

水田:山部さんの作品について、色々お聞きしたい事があるのですが。

山部:時間なくなりますよ。(笑)

minamikouen_001_1500x1500_col_2006水田寛 「南公園 1」 2006  油彩・キャンバス  150×150cm

水田:私は、古い順にいきますと、私も水に取り組んでいました。2006年の大学院のころの作品なのですが、この丸みを帯びたかたちはガラスのコップに水を入れた状態がモチーフになっていて、それをものすごく目の近くまで持って来た時の見え方を絵にしてみようと言う作品です。手前にある弓矢の弓のような形はまるいものを間近で見た時に象がダブってこういう風にみえたりすると思うのですけれども、そういうのも作品にとりいれて絵を描いていました。で、次は‥
マンションをモチーフにした作品です。水の絵から、3年くらいの時間が経っているのですが、目で何かに触れるというような視覚と触覚が合わさったような画面を試みていたところから、また違うところへ移り始めた時期の作品です。先ほどトークの始まる前に山部さんと経験を共有するということについて話をしていたのですけれども、ガラスを通してこう見えましたよというのは、その点で少しどうなのかなという疑問が出てきました。作品と私と観る人の関係がやや図式的になりすぎているように思えて、もう少し何気なく、いつの間にか何かが共有されているような柔らかい繋がり方にできないかと考え始めていました。

山部:うん

mansion_001_2395x6230_2010水田寛 「マンション 1」 2010  油彩・キャンバス  239.5×623cm

mantion-1-detail水田寛 「マンション 1 (部分)」

水田:それと、例えば、バナナだったら黄色でちょっと曲がった形をしているというような、そのものを代表すると思われている姿形があると思うのですが、そういうものは自分の絵には登場しないのかということを考えて、まず、その最初の段階でマンションを描き始めました。似た様な形や出来事が繰り返されることに関心があったのと自分がずっと暮らしていた場所というのもあって、マンションを描いてみたいと思っていました。コントラストを押さえて、暗い所でものを見るときのような画面にしたいと考えていたのですが、先ほどの、目で何かに触れるというのを描き手の体験としてではなく作品を見る人の位置からできるようにしたいという狙いもありました。

</p><p><strong><span style="color: #0000cd;">水田</span></strong>:水田寛 「ジャンクション 7」 2013  油彩・キャンス  250×445cm

水田:次の作品は、またがらっと変わるのですけど、これはすごく最近のもので、高速道路の高架下をモチーフにしています。京都の南のほうにある久御山のジャンクションなどにスケッチや写真を撮りに行ったりして、それをモチーフにしています。これも自分の作品の中では結構大きい方で横の長さが4M以上あるのですけれども、自分が過去に描いた絵や試しに描いた絵をパッチワークのように縫いあわせて、その上に高速道路の絵を描いています。コラージュの上にコラージュをしたようになっているので、最初見た時に何がなんだか分からないかもしれませんが、何回か見ているうちに目が慣れて来て、その絵の成り立ちみたいなものが見えて来るかもしれないです。こんな感じで変わりながらではありますが絵を描きつづけています。今、見てもらった三点はわりと分かりやすい流れを示していると思います。

山部:では、お互いの作品の紹介を終わりにして、こういう作品を制作している二人が、今日は絵について語りたいと思います。その前に、今日のトークに先だって、まず、私は、「仮説 水田寛の歩調と絵画」というA4二枚分の文章を書きました。今日は私の水田論が正しいかどうかを検証しながらトークをすすめていきたいと思います。事前にこの文章をお配りして読んでいただくと私の仮説に引っ張られるといけませんので、今日、ご参加いただいた皆さんには、トーク終了後にそのテキストをお配りしたいと思います。
この文章は、ミシェル・ド・セルトー著『日常的実践のポイエティーク』の第3部、「空間の実践」を下敷きにして書きました。セルトーの言葉を引用しながら構成した文章に自分の言葉を加えながら書き換えて、文章をつくりました。なぜこういう書き方をしたかというと私が美術を始めた1980年代のはじめというのはちょうど哲学ではポストモダニズムの考え方が流行していて、オリジナルなものに対する疑いとして「引用」やいろんな断片の組み合わせで世界が出来ていると考える作品が多かったのですね。ポストモダニズムの潮流が美術の作品にも影響を与えていました。ポストモダニズムの考え方は、今の私の制作にも継承されていて、今回の文章を書く中でも同じ方法論で水田寛論を書いてみようと思った訳です。もうひとつ、事前に水田さんへは、「水田さんへの10の質問」というメールをお送りしました。質問に対する解答を水田さんに考えておいていただくということでお送りしたんですけれども、大丈夫ですか?

水田さんへの10の質問
○視覚的な感覚と視覚以外の感覚について。
○身体感覚と作品の関係について。
○描く材料と作品の質感のこだわりについて。
○モチーフや対象と作者の距離について。
○幼児期の記憶や体験が作品に与えている影響。
○作品と無意識の関係は。
○作品のスタイルの変化について。
○作品は私小説的なものですか。
○作品を制作する場所と作品を発表することについて。
○これからの制作において大切にしたいこと。

水田:そうですね、どの質問もばっちりと答えるのは難しそうですが、かといって絵を描く上で逃げられる問題でもなさそうです。

山部:はい。それでは、まずひとつ目の質問に入ります。水田さんの作品を拝見すると目で捉えられるものと体が運動している感覚など、視覚以外の要素が色濃く反映しているものがあるように感じます。まず、水田さんにとって視覚と視覚以外のものの関係について語っていただきたいと思います。

水田:視覚に限らず、物事を一つだけ取り上げてそれだけを問題にする、つまり視覚だけを問題にしたり、距離だけを問題にしたり、時間だけを問題にしたりといったように別々に取り扱うのは難しいなと最近思い始めていて、つまり、身体的なものが大事とか、視覚的なものが大事って言う様に優劣をつけないでおこうと心がけています。

山部:ちょっと順番はちがうんですけれども、先ほど映写してもらった、水の作品ですね、それ以外にグラスを描いた作品もあるのですけれど、普通にデッサンするような距離から描くのではなく、水田さんの額のあたりに水のグラスがあるような、非常にモチーフに接近した印象があります。反対にルネッサンスのころや、16〜17世紀のネーデルランドの風景画などには鳥瞰的な視点があります。つまり、上から下界を見下ろす視点で描く人が神の視点を持ちます。自分が生活している地面ではなく、離れた位置から観察する。描く人と対象との距離っていうのは、水田さんにとってどういう意味があるのでしょうか。

水田:描く対象をアトリエ内に置いて実物を見て描写するということもあるんですけど、場合によっては、頭の中に作り上げたものや状況だったりして、その場合対象との距離ってなんだろうなと考えたりもします。例えば、この作品だと空中ブリッジと言うタイトルなのですが、この場合ブリッジしている所を下からみたような、鳥瞰とは真逆の地面の底からみたようなところを描いていて、このように頭の中でこしらえたアングルも含めて、どのような距離や視点からでも対象に迫れるようになりたいと考えています。

山部:距離によって突き放すっていう見方ではなくって、ものの中に視覚が入り込んで行くというのが水田さんの世界の空間の捉え方じゃないのかと思います。
次の質問に行きます。

bridge3-116cm×90cm_2014水田寛 「空中ブリッジ 7」 2014  油彩・キャンバス  116×90cm

山部:今、ここにエビぞりする身体を描いた作品があります。この格好をやってみたんですね。何度も挑戦して写真をとってみたのですが、かなり苦しい。(笑)ヨガの様な、苦行のポーズでした。今回の展覧会のタイトルにも「歩調」という身体感覚に関わる言葉が選ばれていますし、身体感覚を連想させる要素がいろんな所に散りばめられていますね。
そこで、水田さんにとって身体的な感覚と作品とは、どういう関係があるのか。たとえば、この作品は母の背中に歩く人が投影されているように見えます。

水田:サッカーしてる人なんです。

mother11-227.5×182cm-2014水田寛 「母 11」 2014  油彩・キャンバス  227.5×182cm

山部:サッカーでしたか。

水田:ブリッジしていたり体操している人が登場することと身体感覚というのとは結びつかないような気もしていて、それよりもその絵にかけられた手間、例えば、直径1cmくらいの小さい丸を30号くらいの画面に描いて行ったとして、そしたらその労力というのは見れば何となく分かりますよね。丸が一杯かいてあるんだなあという具合に。そういう風に絵を描く人の体とか息づかいみたいなものは絵を手がかりにぼんやりと見えて来るようなところがあって、特に私は普段絵を描いているので、絵を見るとその作業量とかは気になってしまうことがあります。そういう作業量みたいなものが好きなんですね。そういうのを見ると興奮するし、自分の作品も、どこかで作業が分からない部分もあっていいけど、じたばたしたところをぐっと押し出して手間かけたのが見て取れる部分と両方あっていいのかなと思っています。
そういうことでの体という意識はあるのですけど、絵に描かれた人物の体の動きと私自身の身体っていうのは、やはりそこまで大きく関わっていないのかもしれないですね。ただ、人間を登場させる時には、頭を下にしたいなというのがちょっとだけこだわりとしてあって、人間にとって頭が下にくるというのは非日常的なことだと思うので。

山部:最初に、水田さんから私と「経験の共有」という話をしたという話がありましたが、もう少し説明すると共有出来ない体験に価値を求めるあり方というのは、芸術を天才的才能に結びつける視点だと思うんですね。例えば、天才にしかできないことに価値があり、普通の人たちが絶対出来ないすごい事をしているとアピールしているということを根拠にすることに対して違和感があります。水田さんの作品の場合は、作品の一つ一つの要素を見ていくと、誰にでも経験出来る体験や感覚で構成されているのではないかと思うんですね。例えば、この車が描いてある絵、先ほど見ているとタイトルが「渋滞」ですよね。

traffic_jam_30_73×91cm_2013水田寛 「渋滞 30」2013  油彩・キャンバス・糸  73×91cm

水田:渋滞ですね。

山部:「渋滞」については。

水田:まあ、わかりますよね。

山部:わかるんですよ。例えば、誰でも罹る可能性のある病気だと共有できるけど、世界に一人しか患者のいない病気だと共有できない、そういう特殊な経験を根拠にする作品は観客にとって共有しにくい作品ではないかと思っているという話をしたのが、水田さんのおっしゃる「経験の共有」っていう話になっているのですね。

水田:確かに、だれにもできないような特殊な技能を駆使して自分にしか感じられないことや捉えられない世界を見せるといったようなことをしているつもりはないです。ただ、多かれ少なかれ誰でも生きてればこれは誰にも分からない自分だけのつらさやろうというようなことはあると思うし、私も個人的には、30年生きてきた中で蓄積されて来た間違いとか勘違いで、今生きている世の中とずれてしまっていると感じる部分はあって。例えば、沖縄と北海道を逆に覚えるとそれは間違った知識ですが、そういったものでも生きるにあたって蓄積されていってしまう。良い、正しい経験や知識も蓄積されて行き、同時に間違いも勘違いも蓄積されていって、それは大人になったら修正していかなくてはいけないのですが、どこかで修正しきれない部分があって、それがその人の人と共有しにくい部分になっている場合があると思うんですけれども、それはそれで、完全に否定してしまわなくても良いのかなと思います。間違いや勘違いも作品の中では息をしていられればいいなと。

山部:たしかに誤読や間違いが創造に結びつくことはありますね。それでは、水田さんの幼児期体験やその記憶は作品にどのような影響を与えているのでしょうか。先ほど言われたように水田さんが生きてきたいろいろな感覚の蓄積が間違いや美化された現実も含めて一点一点の作品のなかに反映している気がするのですが、例えばこの「母の絵」はどうでしょう。
何か具体的な幼児期の体験や面白いエピソードとかあればお願いします。

水田:私が覚えている中で絵を描いたと最初に思った体験というのは、何歳だったかは分からないですけど、父方の田舎が兵庫県の鍛冶屋だったのですが、その仕事場に黒板があって、そこに、チラシに載ってた忍者の絵を真似て描き始めたときでした。それがすごく面白くて暫く田舎では黒板に忍者ばかり描いていました。チョークで黒板にごりごりと描く手応えみたいなものが面白くて、自分の中にぴたっと来るものがあった。そのときの体験があったかなかったではひょっとしたら変わったかもしれないです。だれにでもありそうな話なんですが。

山部:私は幼稚園の頃、新聞広告の裏にアリの巣を描いてました。(笑)

水田:ありの巣!?(穴が沢山空いている絵を思い浮かべて)

山部:チラシの裏に、迷路のようにアリのつくりだす道を描いていました。ここが玄関だとか、台所だとか。今、水田さんの話を聞いていて、思い出しました。

水田:あー。忍者のあとには私も‥

山部:水田さんはアリの巣、描いてましたか?

水田:ノーチラス号って言う潜水艦なんですけど、その原子炉から続く気管はこんなだろうというようなこと考えながらやっぱり迷路のようなパイプを描いてましたね。

山部:そうですか。
幼児期の記憶は、無意識や夢の世界と関係があって、理知的な世界からちょっとずれた世界や自分の無意識の奥底に眠っているイメージとつながって、作品に関係してきますね。

水田:そういう面もあると思いますが、やっぱり今回の作品に描かれている人とか乗り物といったモチーフや画面の有様と無意識とか夢の世界というものとは直接的には関係してないような気がします。ただ、ついついこうやっちゃうなっていう癖のようなものが、最近の作品づくりには色濃く反映されていると思います。でも、それは多くの作家さんが自分の癖と向き合いながらやっているのではないかと。無意識等とその癖の様な物が関係するのかどうかちょっと定かではないですが。

山部:固有の癖ということであれば、幼児期に理想的なお母さんに育てられた場合も、個性的なお母さんに育てられた場合も同じように、子供は親の倫理観や価値観によってタガをはめられます。保護者のいろんな期待を背負わされて、それが心の傷になっていると心理学的に説明されます。逆に良い教育も悪い教育も結局は子供を枠にはめるマイナスの効果が入り込むことは避けられないわけです。おはよう!と挨拶されると、

水田:おはようございます。

山部:と、ちゃんと返す。(笑)このように、だんだん人間は社会的人間として、制度化され、制度のルールに従って生きるように変えられていく。ただ、水田さんの場合はその度合いが少ないのかもしれないですね。両親によってつくられたタガを作品のなかでぽんと外そうとしているところがありませんか。

水田:確かに親から社会性みたいなものを与えられて来たと思うんですけど、絵画において、それを取っ払おうというのは学校の美術教育によって育まれてしまった考えというところがあって、逆に教育によってタガがとっぱらわれたのかもしれなくて。

山部:なるほど。

水田:だから、つまり教育というのは結局どういう事なのかなと。例えばもっと自由に描いたらいいよという言い方があると思うんですが、割と保守的な感じに、屋根があって山があって空があってという絵を高校生のときに描いてたら、まあ、それも良いけど、もっといろんな作品見て、いろんな事やってみたらというような内容のアドバイスは当然言われたりしました。もっともだと思ったし、その方が健全な考え方だとも思ってある程度それを受け入れて実践して来た。だからこうなったのは、むしろ美術教育という制度によってタガを外されて来たって言う所があって、でも果たしてそれが良い事だったのかどうかは僕にもまだ分かっていないんです。親から仕込まれた社会性の方がむしろ制度を越えて根の深い所でいろんなこととつながっているのかも知れない。比較は難しいですね。

山部:今、大学で保育士になる学生に色彩の講義を教えているのですが、色彩の演習での配色には明確なルールがあります。色相環であるとか、色彩の対比のルールがあるので、ルールからはずれていると間違いを指摘できる。しかし、間違いを指摘されるのは学生にとって新鮮な体験であるようなのです。小学校、中学校では、美術で自由に描きなさいって言われたけれども、あなたの絵は間違っていると言われることが無い。だから逆にこれが正しくてこれは駄目だよって、しっかり言い切ることも、美術教育の場合にも必要なのかもしれませんね。我々が大学に入った時も、既成の枠を外して、自由にやったらいいよという教え方が中心だったけれども、確かに水田さんの言う枠を外すのが美術の教育の方法になっているといのはよくわかります。しかし、枠をはずしただけの美術ではおもしろくないとのではないかという反省も必要です。その先に何があるのか。そのあたりどう考えられますか。

水田:その枠を外して自由にやりなよと言われると、その自由のあり方には疑問が出てきてしまう。自由にやらないといけないのかとかえって窮屈に感じられたりします。また、もっと自由にやらないといけないということは、なんだか今のままではだめと言われている気がしてしまう。今やっている事に留まっていてはけないという決まりを設けたらそのへんから自由という言葉がもつ解放感みたいなものが遠のいて行く。そんな風に考え出すと分からなくなってきますが、今やってることもしっかり受け止めつつ一歩一歩進んで行く事で、自由という言葉で表されるものとも違う独自の道筋、道幅みたいなものが作って行けるのではないかという気はしています。

山部:では、次に、絵の質感の話をしてみたいと思います。水田さんの作品を最初に見た時、油絵の具を厚く塗っている表面に、ちょっと違和感あったのですね。しかし、ファイルを見るともっとクールに描いている作品から表現主義的な傾向のものもありました。絵具を厚く塗っている作品はホットな印象で、フラットじゃなくて厚いなって思いました。それは、最近、流行っているフラットで薄いもの、マチエールがあまり強調されないクールな表現の逆を意識された結果なのでしょうか。

drinking_vision_004_-680x680_2006水田寛 「drinking vision 4」2006  油彩・キャンバス  68×68cm

untei_001_727x1000_2012水田寛 「うんてい 1」2012  油彩・キャンバス  72.7×100cm

水田:いえ、そうではないです。もっと絵具を沢山のせる人もいるでしょうし‥。もし初めて油絵の具の絵を見た方がいれば、なんかごてごてしている感じがすると思うんですけれど、数多ある絵の中で、私の絵はどうでしょうね。厚みのランキングとかあったら面白いんでしょうけど。

山部:そう考えると、絵具の量はそう多くはない?

水田:陰影がつくぐらい山盛り絵具をのせて、それによって出来る陰も絵の良さになっているような作品もありますよね。

山部:セザンヌの絵なんかすごく薄いよね。良い絵には薄くても厚く見えるものがある。

水田:ありますね。それは、おもしろいですよね。

山部:そうですね。水田さんの材料とか、表面に対するこだわりをもう一度、お聞かせください。

水田:基本的に油絵の具を使っているんですけれども、ガラスのコップなどを描いていた時期はあまり絵具の量に頼らないで、私の頭を経由してプリントされたような画面になっていたような気がしていて、だから面白いものになっていたかもしれないんですけれども、その頃から意図的に厚みを操作するよりも、作りたい色合いや質感を追求した結果、自ずとその厚みになったというのが良いと思っていました。だから、いまの作品の厚みとか濃さも必要に応じて絵具をのせている結果です。山部さんの金箔のお話にもあったんですけど、下の色を別の色で上から塗りつぶそうと思うと案外ちょっと塗ったくらいでは透けて見えてしまうこともあって、そうした発色の都合で絵具の量が必要になる場合もあります。そういう絵具の物質的制約みたいなものは最近改めて面白いと思っているところです。

山部:それでは、作家には、一つのスタイルでずっと追究する作家と、スタイルが変化する作家があると思うのですね。変化にも一歩一歩、変化して行くタイプと突然に変化するタイプがあります。マン・レイ、ピカソ、ピカビアは変化の振れ幅が大きい作家だと思います。今の作家でも全く違った様式のものを同時に並行して出せる人がいます。水田さんの場合はどうですか。ファイルをみるといくつかターニングポイントがあって、スタイルが何度か変化しているように見えますが、水田さん自身は自分の作品のスタイルの変化について、どのように移り変わって来たと思っていますか。

水田:さっきのスライドの3枚でも見てもらったんですけれども、説明がないとなにが描いてあるのかわからないような画面から、見ただけで具体的にこれが車だなというように何を描いているか分かるものが多くなって来たと思います。これからも特に工業製品や生活の中にある仕組みなどはもっと描けるようになりたいです。人工的なものには特有の描きづらさがあって、登場させようとすると制作の勢いがなくなってしまうことがあります。例えば信号機の絵を描こうとするといざ描くとなるとなかなか空では描けない、すっと手で描けないです。そこが自分にとってはある種の抵抗になっていて、絵にとっても都合が悪い。ショベルカーなんか描いてもいまいち座りがわるくて、絵がかっこ良くならないというようなこともありました。例えば犬の隙間から自転車に乗っている人がちらっと見えていますが、こういったものも自分の絵に自転車乗ってる人が出てくる前は、ちょっと出て来るってことが考えられなかった。自分の絵にそぐわないと思えた。どうすれば登場させられるんだろうか。そういう可能性を試行錯誤しているとどうも制作がテンポ良く進まなくなるのですが、でもそれを繰り返すことで絵が開拓されて来たというところがあるのかもしれないですね。
変化して来ているって思われるかもしれないですが、幅が広がって来ている感じで、前のものを捨てて新陳代謝して行っているばっかりでもないんです。残っていってる部分もある。

山部:取捨選択している?

水田:確かにファイルをみると時間に伴って変化しているように見えますが、過去の取り組みも、それぞれの時期の作風としてしまうのではなく、何らかの形で現在の仕事として引っ張り上げることが出来ると考えています。なので自分ではあまり変化しているという感じがないのかもしれません。

山部:水田さんっていう人が、歩いたり、食べたり、眠ったり、いろんなことをしている。絵を見る時に、こんなことをしている人が作った作品だからいいなと私小説のように作家の顔を思い浮かべてストーリーを読むように絵を見てよいのかどうか。物語性もまた難しい問題なのですけれども、ある一つの作品はこういう文脈の上にあるから、この作品はいいなって判断する場合ともっとピュアに作品を作品として純粋に見るという立場があると思うのです。水田さんの作品の場合、水田さんの体験がコラージュしてあって、ちょっと私小説的なところがあるのかなと思うのですけれども。

水田:自分の収集した資料などをもとに描いていると私小説を書いているような感じもありますし、むしろ、描く作業が私小説を読むことに重なる時もありますが、こうやって壁に置いてみると「誰の絵だろうこれは」と思うくらい自分から遠いものに思えることが最近はありますね。
そういう意味では、作ってる間と終わったあとでのギャップがある。作業の中には私小説のような段階がある気がしますが、それは描き上がって壁に掛けるころには終わっていないといけないのだと思います。

山部:たしかに、作るプロセスから、だんだん何かが出来ていく時間があることが重要ですね。今回のタイトルの「歩調」ですが、作品を作って行くプロセスが、町を目的なく歩いている時の感覚につながっている。「歩調」は、健康のための歩数ではなくて、一歩一歩の質感に置き換えられて、一万歩じゃなくて二百歩でもいいし、プロセスの質感みたいな事に対するこだわりになっていると思います。そこから物語のようなもの、イメージのようなものが発生している。

水田:それは、本当に今回の歩調と言うテーマについて的確に言って下さっていると思います。歩数と言って下さったんですけれども、歩調に対して、速度というのを考えていて、一定の時間あたりどのくらい進んだか、どんなふうに移動しても出て来る値です。それに比べると歩調って言う言葉には、時間あたりの歩数という考え方もあるのですけれども、そこにはなにか、相というか、表情みたいなものが含まれる気がします。

山部:私は地層の層は含まれるなって、思います。

水田:そうですね、歩調によって、とぼとぼ歩く、てくてく歩くと印象が変わって来たりもします。これは時間とか距離とか歩数ではあらわせない要素が自然と作られている感じがします。

山部:そうですか。

水田:かといって、私は数値みたいなものを、歩数をだめって言っている訳ではなくって、なにか、一つのことについていろんな方向に様々な尺度が伸びていて、それらの値を綿密に調べることですごく面白いことがわかることもあると思います。しかし、それは私には手に負えなさそうですし‥なんていうんですかね、最後にはこういうことが説明できなくなるから絵を描き始めるんですけれどね、しびれをきらして。

山部:そうですね、絵を描き始める瞬間は、今日は歯医者さんに行こう、今日はデパートに行って服を買おうというように目的があって動くのではなくて、どこかに行こうという漠然とした目的はあるのだけれども、犬が横断歩道を横切ったら、それについて行っちゃうようなところがあって、最初に決めた目的地に固執するのではなく脇道に逸れながら、その遠回りに寄り添うようなところがあります。しかし、そんな「歩調」の自由さの中にも、どこかに目指すべき方向はあると思うのですが、水田さんはエスキースって描くんですか。

水田:エスキースっていうのは、下絵ですよね。ここに何を描くかという、確定的なプラン、設計図みたいなもの。そう捉えると、それは僕にとっては極端な言い方をすると敵のようなものです。

山部:下絵は敵ですか。 (笑)

水田:下絵のみならず、頭の中にさえも、こういう絵を描こう、という計画を作り上げてしまうと、そのうちに身動きがとれなくなってしまいます。

山部:しかし、逆の立場もありますね。日本画には草稿、西洋の風景画には構想があるべきだという。それは駄目ですか?

水田:だめとは思わないです。それができるのはすごいことだし、本来できなければならないことです。絵のみならず、作品っていうのはプランがしっかりしていないと成り立たないというところがあると思います。だからそういう事が出来る人はすばらしいと思います。自分も大学生の学部のときは、きちんとプランをたててそれを実践出来ないとだめだと思っていました。大学っていうのは、研究計画書っていうのを学期のはじめに出すんですね。

山部:教授を安心させるための研究計画書でしたね。

水田:今思うと、そこまでこだわらないで、もう少しやりたい事を展開させていったら良かったのかもしれないんですけれども、ものすごくひっかかりになっていて、いつも、なんかこれ研究計画書と違うなってストッパーになったりしていました。

山部:水田さんは、計画に従って作るんじゃなくて、描きながら生まれる瞬間のリアリティを大切にされている訳ですね。

水田:そのようにもいえると思います。ただ、計画とその実行という二つの行程の境界があいまいになっていることのツケはどこかで払わないといけないみたいです。数をつくるというのもその一つだと思います。フレッシュな感覚みたいなもので、直感的にできたものをサって並べただけでは、ちょっとうまく行かないところもあって、やっぱり一枚一枚の絵はそれぞれ何かの積み重ねだし、閃きの様なものも含まれていますが、それで出来たものが余分にあって、それをまた選ぶ段階があって、そうした行程の中で徐々に自分ではこういう事がしたいのかなというのを煮詰めて行くのが制作の作業だと思う。その作業はこれからもっと充実させる必要があります。

山部:僕もそうですよ。以前は一つの線や形をみつけるために何百枚もエスキースを描いていました。しかし、今は、画面の中で変化させながら完成させる方法をとっています。
それでは、次に作品を発表するということは水田さんにとってどういうことですか。

水田:発表する、作品を作るということと、発表するということは‥。

山部:一緒ですか?

水田:いや、一緒ではないですね。

山部:観てもらうことは?

水田:そうですね。発表とは、やっぱり観てもらうということですね。私の場合観て下さる方々っていうのはものすごく重要です。いろんな姿勢があっていいと思います。作品は自分が見たいものを自分のために作るという人もいていいと思うし、私もその部分もありながらも、やっぱり観てもらいたいという欲求は否定出来ないものがあります。普通かもしれないですが、やっぱり発表するということは観てもらう場所におくということです。

山部:事前に用意した10の質問にはないのですが、もうひとつお聞きしたいことがあります。私が作品を発表しはじめたころは、日本の美術の中心は東京にあって、大阪、神戸、京都での発表はローカルである、あるいは、アンチ中心という認識がありました。ですから、関西で自分が美術をやっている事で、どこまでその波紋が広がるのかという不安が少なからずありました。大学の先輩に話を聞くと、京都で現代美術をやっても世界には通用しない、関西でやっていてもだめだよというネガティブな発言が多くありました。美術は、ミニマリズムやコンセプチュアルアートでその可能性は全部やりつくされているという考え方もありました。しかし、そのようにモダニズムの美術が死んだのだとしても、私は美術大学に入学したわけですし、美術としての作品を作りたいという気持ちがありました。ちょうど海外では、ニューペインティングが出てきた頃でポストモダン的なものが美術手帖などで、紹介されはじめていました。その頃の京都市立芸術大学には、石原友明さんとか松井智恵さんとか、中原浩大さんとか、森村泰昌さんとかが学生としていました。自分たちは何をしたらいいんだって言うときに、「イエスアート」や「フジヤマゲイシャ」という自主企画のグループ展をはじめたのですね。それら関西のグループ展のムーブメントは、82、83年ごろから、関西ニューウェーブとして取り上げられるようになりました。京都、大阪など、関西のアートの方が東京より面白いと注目されました。東京は「もの派」や現代美術を継承する仕事をやっている方が多かったのですが、関西の作家の作品はカラフルで自由な形式の美術に対するこだわりやタガの外れた表現が多く見られました。その時代が私の制作の起点になっています。結局はそのあと、どうやって展開し制作しつづけるかということが重要なのですが、今、何が聞きたいかというと、水田さんは美術史と自分の仕事の関わりについてどのように意識されていますか。

yesart-1984イエスアート・シンポジウム 1984

水田:美術史を見ない訳にはいかないというか勉強しないといけないと思っていますし、一方で、見るのは見て、それを受けて反応するのではなくて、見ながらもそれとは別にもっと肌で感じる課題とか、やりたいことに基づいて動いて行こうと考えています。美術の中心がどこかという問題もあると思うのですけれども、中心を求めて移動ばかりしているわけにもいかない。ニューヨーク行かないとやって行けないと言われてもちょっとぴんとこなくて。自分の作品と美術史の関わりを意識はするけど、操作しようとは思っていないです。

山部:ニューヨークに行かなくてもやっていけるということですね。

水田:美術の中心は、自分の足下だと考えています。

山部:ああ、(笑)そこなんですか。(水田の足下をさして) (笑)

水田:みんながそう思って、自分の足下の渦を大きくして行けば良いのではないでしょうか。渦同士のみこみ合う様なことにもなるかもしれないですが‥。

山部:80年代前半は、まだパーソナルコンピュータ使えなかったので、案内状つくるのにも写植屋さんに文字を打ってもらって全部貼り込んでいました。ホームページも簡単にはつくれなかった。携帯電話もありませんでした。しかし、今は自分達の作品を作ってアピールするためには、自分でサイト作ればいいじゃないですか。

水田:そうですね。

山部:そういうのが一切ない時に何をするかというと、グループ展を企画し冊子を作り、雑誌に記事を載せてもらうことも考えました。その頃、工作舎の「遊」という雑誌があって、松岡正剛さんが編集長で、後藤繁雄さんもいらっしゃいました。「スピリチュアルポップ」というグループ展を企画したときには、「遊」にその展覧会を紹介するための紙面をもらいました。自分たちの作品を展覧会としてデータベース的に編集して、自分達がやっている世代の仕事をまとめてプレゼンしていく。美術の大きな歴史に対して、自分たちの小さな歴史も同じ歴史として認識し、そのクオリティを高めていけば、関西の美術の歴史が世界の美術の歴史と同じように意味を持つはずだという思いがありました。いろんなグループ展を企画し、自分の足下で美術をやるのが大事だと考えたわけです。今なら、海外留学も両方やりますけど(笑)

水田:そうですか?

山部:80年代後半あたりに留学していれば、活動が広がったかなって (笑)、しかし、基本的スタンスは、今、水田さんが言ったように自分の足下から美術って始まると思っています。

水田:中心だからそこへ行こうというのは。理にかなっているばかりではないという気もします。むしろ中心と言われる所と距離をとる方がなにかとやりやすい事も多い。

山部:あなたが作品を作るときに現代美術の美術史について考えますかってときどき若い作家に質問してみるのですが、8割以上、意識しませんと答えます。しかし、その関係ないって言う根拠が見えないのです。たとえば国際展のテーマであるとか、現代美術で流行っていることだけが正しいとすると、自分の作品はだめなのかなと思いますよね。しかし、時代のパラダイムとは関係なく自分の作品をつくることと水田さんの「歩調」とは、必ずしも、同じではないようにも思うんですね。自分のリアリティに誠実になるっていうことは大切だと思うんですけど。

水田:やっぱり人間はお互いに影響しあう生き物なので、全体を支配する流行や、そういうもので作られる空気というのはものすごく影響力があると感じていて、それに触れると自分の歩調を保つのはむずかしくなるというのは、私も体験しています。今でもその圧迫感を強く感じる事があります。ただそうやって一度歩調を乱されると、いや自分はこういう足どりでやって行きたいんだというのもよりはっきり見えて来ると思います。そこからまた踏ん張り直して歩き始めればいいではないかと。

山部:しかし、私も同時代の国際展と自分たちの自主企画展に同じ価値があると言いながら、兵庫県立美術館の「アート・ナウ」に選ばれたいと思っていましたし、ベニスビエンナーレやドクメンタ出したいと仲間と語っていました。ちょっと矛盾しますよね。私は、足下大事って言いながら、ドクメンタに出したいという、その矛盾を抱えながら足下を大事にするという矛盾を抱え込みながら、その矛盾を乗り越える必要もあると思います。

水田:国際展等がどんな様子かは私も気になります。でも先日ある小学校の空き教室でグループ展をして、お客さんは少なかったんですけれども、そういった大規模な国際展等にはない醍醐味がある展覧会だったと思いますよ。これからは少しずつでもそうした発表の場も活気のあるものにして行きたい。

sakaidani_sakuhinten_tenji_2014境谷小学校作品展  空き教室を使ったレジデンス参加作家による展示  2014

山部:いいですね。越後妻有の大地の芸術祭のように、経済のピラミッドをひっくり返して、経済の中心ではないところに、最先端の現代美術が集まるというのは、刺激的です。今までは政治と経済の中心に美術が集まっていたのをひっくり返す活動は、カウンターカルチャーです。経済の中心でないところに美術の中心をつくるという行為には興奮しますね。それでは終わりの時間が近づいて来ましたので、最後に水田さんがこれからの制作において、大切にして行きたいことについて聞いてみたいと思います。

水田:これからも、密度や量、それにかける労力などを出来る限り充実させて行きます。もっとじたばたしても良いと思っています。見せる作品として絞る前の選択肢をより豊にする必要があるので。しっかりやって行きたいです。

山部:それでは、私も同じ様に今後の活動について。作品では「風景画」がモチーフになっていますが、「作品ならざる作品」というのを最近考えています。いろいろな意味があるんですけれども、個人的にやっていることで、作品にはしないけれども、これ作品にしようと思ったらなるなって言う活動の密度を増やして行きたいなと思っています。例えば、その活動を映像に撮ってインスタレーションすれば作品になるとしてもしない。作品にしないでその行為の密度を高めていくという「作品ならざる作品」という部分をしっかり自分はやっていきたいと思っています。

水田:なにか具体的にこれ、っていうのは?

山部:ひとつ例をあげると無農薬有機栽培で固定種の野菜をつくること。その他にもいろいろありますが、公開を目的にしないから「作品ならざる作品」です。作品以外にそういう部分がベースにあるのが、よいと思っています。ネタがあればすぐ作品にしてしまうのはどうかと思うので、「作品ならざる作品」としての活動を充実できれば良いなと思っています。

水田:逆に絵ばっかり描いていると作品以外のベースの部分が希薄になってしまうような危機感を覚えるような時はあります。私はそれに気をつけないといけないと自分で思います。

山部:そうですか。そろそろ終わりの時間が近づいて来ましたけれど、水田さんから今日のトークで話し足りなかった所とか、逆に私への質問、ありますか。

水田:山部さんにひとつ聞きたい事あったのですが、金箔の作品について。あのころの作品を考えて、やっぱりやらなくてよかったという気持ちになったりしたことはありますか?逆に絶対やらなきゃいけなかったと今でも確かに思っておられるか、その辺りどうですか?

山部泰司  2004

山部:それはやらなかったほうがいいなんてことは一切ないですね。

水田:やはりそうですか‥。金箔の作品は以前の作品との断絶を意識されていたというお話を聞いて、自分も山部さんほど思い切った感じではないのですが、前までやって来た事を断絶しようという意識で作っていた時期があったのを思い出しました。私の場合は闇雲に作品を作っていたのもあり、その時期のことをやや後悔してしまうのですが、山部さんは意図もはっきりされていたので、そういった後悔はされてないのですね。

山部:金箔を貼る仕事は、作家としての最後の仕事だとお叱りを受けた記憶はあります。今までと違った作品を発表したときには、必ず前の作品がよかったと過去の作品をほめてもらえますね。花を描いていて、他の仕事になったときには、それまで花の仕事を褒めてくれなかった人が、花のよかったのにどうして変わたのかと言う、金箔を貼ったら前の仕事よかったのにどうして金箔なんか貼るのと、新しい一歩を踏み出した時には前の仕事がよかったと引き戻そうとする感想がいつもあります。5年から10年前の、あの頃の作品がいいねって言っていう感想もあります。ですから、今の私の作品が一番いいと思わなければやっていけない。 (笑)
今日は、水田さんから貴重な話をいろいろいただいたと思いますが、会場から何か水田さんに質問があれば、どうぞ。

質問:私、水田さんの作品をずっと見て来ているんですけれども、水田さんて、イメージが重層化しているというか、一枚の中にたくさんのイメージが重なっている。水田さんは何を考えてこんなに一杯のイメージを一枚の絵に放り込もうとするのかっていうのが聞きたい。

walk_18_148×200cm_2014水田寛「散歩 18」2014  油彩・キャンバス  148×200cm

水田:一つには、画面が特定の何かを伝えるのとは異なった状態にしたいというのがまずあります。イメージに限らず、色彩や、絵具の質感といったそれぞれの要素が一つの目的に向かって有効に作用するのではなく、それぞれの目的を持ったまま一時的に同一画面のなかを通り過ぎているといった感じでしょうか。ただ、そうなると、常に複数のモチーフを登場させないといけなくなりそうでした。一点のモチーフだと言いたいことが特定されてしまいそうに思えました。そのことを検証するためにもこのズボンの絵のように一点だけぽつんとものがあるような作品を何点か描きました。その中で、一つのモチーフであり得るような状況を描いていても、特定の言いたいことに向かって要素が統一されない画面をいくつか作る事が出来たので、今回それらも展示しています。

zubon_5_227.5×182cm_2014水田寛「ズボン 5」2014  油彩・キャンバス  227.5×182cm

山部:たくさんのことを放り込むということで言えば、水田さんは展覧会するときに何かプラスαはあって、案内状をいただくときにカレー食べに来て下さいって言われたことがありました。(笑)カレーをふるまいたいのか、絵を見せたいのかわからない。また、美術館のポスターかというくらい大きなポスターをつくったり、そういう普通の人があえてやらないことを水田さんはよくやります。

水田:あれは、私の場合はしっかり宣伝しないと来てもらえないという気持ちがありました。とにもかくにもまずは作品を観に来てもらいたい。だからカレーには明確な理由と目的があって、カレー食べに来て、ついででも良いから絵をみてほしいと。そういうことなんです。

一同:(笑)

山部:いや、カレー良いですよ。あまりにも奇麗にまとまりそうなので、最後に辛口でカレーの話題を少し。

水田:そうですね。

山部:カレーでしめくくります。今日はどうもありがとうございました。

水田:ありがとうございました。

(約1時間30分)


(仮説) 水田寛の「歩調」と「絵画」
山部泰司

ルネッサンスや17世紀ネーデルランドの画家は、いまだかつて存在したこともないような上空からの風景を描いた。鳥瞰図によって成立する風景は、純粋に視覚的なものであり、視覚から身体を切り離してはじめて成立するものであった。そんな特権的な視覚は人々の暮らしや都市の雑踏とは関わることがなかった。
水田寛の絵画は、そんな上空からの特権的な視点によってつくられるものとは対極にある。水田の絵画は、上空からの視点ではなく日常的な営みや地上の世界において見ること、見えることがとだえてしまうところから始まっている。歩くことは自らの足下を感じることによって可能になり、そして、歩行する身体が空間の近さと濃度をつくりだすのだ。そこでは、抱きあう恋人たちが相手のからだを見ようとするプロセスと同じように、対象に接近しすぎた結果として可視と不可視が交差する場所が生み出される。
水田の絵画の中では、ひとつひとつのイメージが他のイメージと絡みながら飛躍し、読解不可能な場所に投げ出される。だから、私たちはそこに何か具体的なメッセージやコンセプトを探ろうとしてはならない。そこは私とあなた、作者と観衆の輪郭が消失する秘密の場所であり、空間が変容し多種多様な物語が生まれる場所なのだ。
水田の作品は、彼の身体の記憶によってつくりだされる表象である。それは、視覚によって絶対の価値を与えられたものではない。身体から生み出される絵画は平滑な表面をつくるのではなく、視覚によってとらえられないもの周囲にぼんやりと浮かびあがり、その周縁をわずかにはみ出る。そして、その外縁に組み立てられたイメージは強固なものだ。
水田の絵画における「空間の実践」は、さまざまな美術の方法論を参照しながら遂行される。そして、そこから詩的イマジネーションや神話的経験とでも呼びうるよう物語を紡ぎ出される。その物語は歩調とともにはじまるのだ。歩調にとって大切なのは歩いた距離ではなく、運動感覚から導き出されるスタイルのひとつひとつの質である。そうした歩調の独自性が、絵画がひとつのコンセプトに置き換えられることを拒んでいるのである。
歩行者としての水田は、移動の中に不連続をつくりだすことになる。あるときには人気のない場末、また、あるときには人のあふれる雑踏へとさまよいながら、ふとした偶然から脇道に逸れたり、立ち入り禁止の非合法的な空間にまぎれ込んだりする。彼にとっての歩調は、空間を文体的に変貌させる空間の実践なのだ。歩調は、そのプロセスを夢の表象に関連づけて考えてみることも可能なものだ。
歩くということは、ひとつのポジションへの拘泥ではなく、今いる場所を失うための前進であり、いまここの場を不在にして、次の場所を探し求める果てしないプロセスである。しかし、この歩調には、プロセスを遊戯化することや祝祭のプログラムをつくりだす効果があり、あらゆる権威をローカルなものに変容させ相対化させる力があるのだ。
歩く人は、景色の中の余剰や過剰を見つけて既存のシステムのなかに紛れこませることが大好きだ。歩く人は制度的な美術の形式主義やコマーシャリズムには少しも心動かされない。実のところ、歩く人は、歩くプロセス自体が、「ローカルな権威」であることを熟知している。歩いたり、食べたり、寝たりする日々のしぐさのなかに過去が流れこんでいるのと同じように、「ローカルな権威」が現在に溢れ、それはどこにも中心となる場所を定めることかできない。故に、エピクロスが自己充足の最大の果実は自由であると言ったのと同じ意味でそこに自由の震源がある。
歩く人の場所というのは、幾層にも重なった断片によって成立し、様々な断片が層と層の間を自在に行き来するものである。そして、こうした交通する空間の厚みそのものが、水田の絵画なのではないだろうか。
こんな絵画の実践において大事なことは、その絵画表現と水田自身が同一ではないことに気付く瞬間であり、絵画の虚構性が意識化される瞬間なのである。つまり、空間を実践化することは幼児のことば無き喜びの体験を反復することであり、絵画のなかで他者であること、そして他者に移行することなのである。
このようにして絵画は、たえず場所を空間に、空間を場所に転換させるはたらきをおこなっている。絵画は、空間と場所がたがいにいれかわって関係を変化させるゲームを組織している。
このような空間編成において物語は排除されるべきものではない。物語は、歩調を制限するものではなく、創造的な行為としての歩調を補完するものだ。物語に分析する機能と物語を語る機能とをあわせ持たせることは可能であり、そのとき物語は絵画を創生するものとなる。逆に、形式やルールによって物語が消滅してしまうとき絵画は消滅してしまうのかもしれない。
つまりは、絵画とは余地に生きつづける違反行為なのである。侵犯する絵画はしっかりとした表面で構築されているが同時に柔軟性をそなえており、触れることのできない権威や神聖さとでも戯れることができるものだ。
いずれにしろ、こうした侵犯行為は、絵画に関するかぎり、美術の歴史のなかに身体を刻みつけてゆく系譜からはじまる。さまざまな絵画の実践、享受する身体の不透明性によって、彼方や中心に対する今ここを、「グローバリズム」に対する「ローカリズム」をはてしなく組織しつづけてゆかなければならないのだろう。
水田の絵画の物語はローカルな話し言葉として、歩調へのこだわりによって、美術の規範や歴史を実践化によって相対化する。そこで、まず変化するのは美術ではなく水田自身であり、そして、水田の作品のなかで変化しつづける歩調であり、そして、最後に望むべきは美術のフレーム自体にもたらされる変化である。

参考文献
『日常的実践のポイエティーク』ミシェル・ド・セルトー著
(特に、「第三部 空間の実践」による)